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2006年11月09日(木)
棕櫚の木
先日、お客様のお宅にお邪魔したときのこと。
お客様
「そこに植えてある棕櫚の根って丈夫なのかしら?」
(高さにして5メートルくらいの棕櫚の木でした)
私
「さあ、抜いたことがないのでわかりませんね」
お客様
「なんで棕櫚の木なんて植えたのかしらね」
私
「そうですね、私の実家にも以前ありましたけど、なんで植えられていたのか、聞いたことがありませんね」
そんな話をしていたら、なんだか棕櫚の木が気になり始めてしまったので、いろいろと調べて見ました。まずは植木屋さんに聞いてみました。
私
「ちょっと、教えてほしいことがあるのですが、棕櫚の木ありますよね、何か意味があって当時は棕櫚の木を植えたのですかね?」
植木屋さん(60歳は超えていると思われる)
「んー、考えられるとしたら、棕櫚縄かなあ。昔は輸入品やビニール紐がまだなかったから、棕櫚を編んで縄にしていたそうだよ。でもそれは昔のことで、俺の時代は使っていなかったからあんまり詳しいことはわからないなあ、これくらいしかわからないねえ」
とのこと。
んー、ますます気になる。一体、なぜ棕櫚を植えたのか。それも何本かという少ない本数を・・・。
次にインターネットで調べてみました。
以下の1から3は、インターネットからの引用です。
1.ワジュロ
日本に産するヤシ科植物のうちもっとも耐寒性が強く、東北地方まで栽培されている。雌雄異株で、・・・・・・・・・・・・省略。
シュロ皮を煮沸し、亜硫酸ガスで燻蒸した後、天日で干したものは「晒葉」と呼ばれ、繊維をとるのに用いられる。シュロ皮の繊維は、腐りにくく伸縮性に富むため、縄や敷物、ホウキなどの加工品とされる。
2.棕櫚の花
南国情緒をたたえたその姿形は公園樹や庭木としても人気が高く、現在では東北地方までの各地で広く植栽されているようだ。
我が家のシュロは父の代に植えられた雄株で、樹齢は定かでないが60年ほどだと推定される。幹の頂が4.5m前後、葉の先端が 5.5mある2階の軒先にかかる高さだ。
3.「棕櫚産業」の盛衰
野上谷(和歌山)で棕櫚縄が本格的に始まったのは、明治10年(1877)頃といわれ、明治18年(1885)には、現在の「海南特産家庭用品協同組合」のルーツである「和歌山県棕梠東京積同業組合」が設立されました。東京積とあるように、野上谷から船便で積み出しされた棕櫚皮の送り先はその昔ほとんどが江戸であったのです。
日清・日露両戦争(明治27〜28・明治37〜38)を経て、棕櫚製品の需要は、軍の弾薬箱の手縄として大量に利用されるなど軍需増大もありにわかに高まり、それまでは農閑産業あるいは農家の副業としての色彩が強かったものが、その後、専業としての問屋・製造者が続々と現れ、地場産業としての基盤となっていきました。明治40年頃からは原料の不足が生じ、国内産の棕櫚皮ではまかないきれず、中国産を輸入するようになり、大正のはじめ頃からは代用品としてスリランカなど東南アジアから椰子の実の繊維=パームを輸入するようになり、棕櫚に比べて安価なパームが主役になり棕櫚産業というよりパーム加工業という方がふさわしいくらいになっていきました。
昭和30年頃から日本は高度成長に入り、原材料として、ナイロン、ビニール、テトロンの順で化学繊維が登場し多種多様な製品が開発されていくとともに、家庭電化製品の大衆化により「電気掃除機」も普及し「棕櫚の座敷帚」が掃除用具の主役の座を奪われ、台所用品の主役であった「棕櫚束子」が「スポンジたわし」にその座を譲るとともに、核家族化の進展による新築家屋の増加、畳の和室からフローリングの洋室、座布団からソファーといったように、日本の生活様式の「和」から「洋」への転換が始まり、こういった種々の要因が新製品の開発に拍車を掛ける結果となりました。
以上のことを参考にして、棕櫚を植えた理由を考えると、まず、お客様の庭にある棕櫚の木の高さが5m前後ということから、インターネット引用文2より、その棕櫚が60年くらい経っていると想定できます。次に、生活のために必要であったのかという視点から考えてみると、インターネット引用文3より、それもないだろうということが考えられます。したがって結論は
観賞用に植えられたものでしょうね、おそらく。
もし、他の意味がみつかったら、いつか報告いたします。








